Junko歳時記へおいでいただき ありがとうございます
光も風も秋色になってきた。
ツーンと静まりかえる空気。
道端にはヤマトリカブト、
ミゾソバ、庭にはアケボノソウが
咲いている。
INDEX
    ガンをもらって
(その4)
ガンちゃん よろしくね!
(その3)
 
ガンちゃん、よろしくね
(その2)
ガンちゃん、よろしくね!
(その1)
九条のもつ意味 元気な暮らし 仏教の心 仏像(2)もう一つの時間
仏像 ブナ林 アケボノソウ ミヤコグサ(マメ科) オサバグサ(ケシ科)
チョウセンゴミシ 雪の暮らし 遠慮がちな春 薫る風 病気して見えてきたもの
 自然のしくみ 「色即是空」について  冬の日  三方五湖 スノーシュー
ガンをもらって(その4)
 ガンをもらって色々な事を考えた。
その1
 今、ここに生きているって イイナア。何を見ても新鮮で涙が出るほど美しい。毎日毎日が愛しい。ストーブの上のヤカンの煮えたぎる音を聞きながら、この文を書いているこの時間がとても大切に思える。穏やかに暮らせる幸せを味わっている。自分や物事に執着しない。比べない。どうせ≠熈自分だけ≠ノもとらわれない。病気になっても心の病気にはならない。崖っぷちを見たくなくて楽≠ホかり向いてきたが、崖っぷちなどどこにもなくて、自分が楽≠セと思えばどれも楽≠ネのだと。何ものにもとらわれないとこんなにも解放的になれるんだと。
その2
 松井秀喜選手が「子どもの頃から自分の力を誇示しようと思ったことはない。チームが勝つために打ちたい一心でやってきた」と。何と謙虚で自信のある言葉だろう。「自分のためだけ」というのは、自分の持てる力も発揮されない未熟な状態なのだろう。自分の持てる力を十分発揮し、それが周りの人の喜びとなり、周りも力を発揮し、喜びを分かち合う。この年になっても、そういう生き方をしてないんだと反省する。「一生懸命さ」を学んだ。
 老いや障害によって人より出来ることが少なくなっても、自分の持てる力を発揮する方向に向けていきたいものだ。「人生がわかるのは逆境の時よ。」(ココ・シャネル)
ガンちゃん よろしくね!(その3)
まずは診断名がつく。肺腺癌。60〜70歳の女性が喫煙歴がなくてもなりやすい癌。半年早ければ1pですんだが、その反対に遅ければ、動脈にくっついて手術不可能。1pなら肺下葉の一部摘出だが1.6pもあると転移や微小ガンもあると考えられるので左肺下葉を全摘。肺は全部あってもフル稼働していないので1/4なくても普通の生活ができるとか。つい「山登りはできますか」と聞いてしまった。私の普通は山登り生活だから。後遺症は咳が多く出ることと痛みを伴う。しかし、これも個人差あり。淡々と説明する医師に1sの鶏肉半分切り取るみたいに聞いている私。何だかとても簡単な手術に聞こえる。左脇4カ所穴を開け摘出。吸い取るやり方なのか、患部が肺の外側にあるのでやりやすいらしい。原因は?と聞いたら、どこでも良く聞く言葉加齢=Bたしかに癌は毎日増殖しているのだ。それを免疫細胞が闘ってくれているのだが、環境やストレスが味方して癌の一部が防衛軍からすり抜け勝利してしまう。元気だと思っていても、どこかで免疫力が後退していたのだろう。この大きさで数年。癌とはそういうものなのだと知る。
 ─ 肺欠けても 凛として達 小気味よく ─
ガンちゃん よろしくね(その2)
 「宝くじには当たらないけど、ガンには当たるんだね」と知人が言う。元気な私を見てつい出た言葉。ガンとはそういうものなのだ。
今日は、2回目の気管支内視鏡検査。細胞診6カ所。生体検3カ所。1時間20分かかった。先生方のなかなか攻めたい患部にいけない焦りの声とお互いを励ます声が入り交じる。私にも「良く耐えたね」の一言が欲しい。1回目の検査は若い女医さん。喉の麻酔をかける時も患者の様子を見ながら「はい、肩の力を抜きましょう」「少し休みましょう」「協力してくれてありがとう」のねぎらいの言葉があった。目的に向かって闘争本能を燃やす男と横のつながりを大事にする女のDNAが病気に対して違って表れるのかな。気管支をかなりいじっているので、この日は1泊入院。6Fは化学療法を受けている女性たち。降ってわいたガンと転移を静かに受け入れている。病院は病気とだけ向き合うところ。病気を治すことのみ専念しなければならない目標に医師と看護師と病友がつながっている。
 近所の人と漬け物を囲んでおしゃべりもない。庭の草むしりも、畑から採ってきて浅漬けを作ることも。病衣を着て、ベッドの上の病院食、器具の音が聞こえる廊下脇のトイレ、全て、非日常、こういう所に来ると、ありふれた日常のなんとまぶしく、愛しい事か。病気にだけ向き合う治療でなく、生きることに事に向き合える治療はないものか。


   「やわらかき黄葉の こもれび 告知の日」
   「病室の夜景より 家の窓 恋し」
   「病室の眠り こわれる 咳一つ」
   「秋空に浸みゆくズミの赤い実と同じに生きよと告げるガン」
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ガンちゃん よろしくね(その1)
 7月、夫と市の肺ガン検診C・Tスキャンに入る。胸部レントゲンでは、早期ガンは見つからない事を知っていたし、父が67歳に癌で亡くなっているので遺伝性もあるのではと感じていた。しかし、自分だけは違うだろうと。ところがひっかかった。かつてヘビースモーカーの夫は白で「奥さんの方が」と松代総合の先生はおっしゃっる。病院のC・Tではサルコイドーシスという難病を疑っていたが、造影C・Tにはいり、新たなリンパ節の中に癌らしきもの。さらに精密な検査をするため厚生連の画像診断センターPET・CTを紹介される。これは、全身の中に8oのガンも見つけるというすぐれもの。結果は肺に2カ所の反応あり。ここまでくると気管支内視鏡で調べないと確定できないので信大呼吸器科を紹介された。今まで以上に鮮明な造影C・Tを撮り、先生と一緒に画像を見ながら「こういう風にリンパを引っ張っているのは、ガンの特徴」という説明を聞いて「なるほど」と妙に納得。わからないときの不安より、わかった時の方が落ち着いた。かえってこんなに小さくすんで、私って運がいいじゃん」と・2人に1人がガンになる時代、ガンでは死なないと言い聞かせる。手術と転移というリスクを負うが、早期ならQOL(生活の質)は下げなくて良いし、山にも登れる。病気をもらって、命に限りある事を知り、毎日を大事にしようと思う。   癌と闘っている自分の体を愛しく思う。日本は早期発見システムが確立しているのに検診率が低い。大腸ガンで19%肺ガンでは16%。早期なら胃・大腸ガンは100%治癒する。早期なら精神的、肉体的、経済的にも軽く済む。どうか早期発見のガン検診を受けて下さい。
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九条のもつ意味
グンナイフウロ 太田光、中沢新一の本
「九条を世界遺産に」という発想がどこから来ているのか知りたくて読んでみる。私なりの理解でいくと次のような事かと思う。「憲法九条」は世界に一つしかない理想の社会、国際社会の有り様を描いている。他の国の憲法は「殺(や)られたら、殺(や)りかえす」か「殺られる前に、殺ってしまう」というものだが、「殺られても、殺らない」という希有な憲法である。だからこれを守るには、それなりの覚悟がいる。同族を殺す動物ではサルの仲間だけだという。そのDNAを持った人間は「殺す」という行為が簡単にできる動物である。だから、「殺されたくないから、殺さない」では、この憲法は守れない。「殺されても殺さない」という覚悟がないと守れないのだと。日常、生活している人間は、いさかい、傷つけ合って暮らしているけど、あの山の修道院では、毎日、己に厳しく修行し、清らかな生活をしているのではないでしょうか。時々、あの修道院の人たちの事を考え、心を清めよう、平安に暮らそうと願う、その願う拠り所が、この憲法九条であるという。たしかに「誠実に希求する」という言葉のひびきはとても宗教的に感じる。願うという弱々しいものではなく、一途に、激しく、曲折しない祈りのようなものを感じる。そういえば、六波羅蜜に到る過程で、まず実践しなければならない十善戒の第一が「不殺生(ふせっしょう)」。生きとし生けるものを殺さない。もっとつきつめて 殺されても殺さない。我々人類の歴史は殺し合いの歴史とみてもいい。だから、この憲法に込められた「非戦」は永遠に願い続け、日々、あらたに問いかけ続けなければならない。決して古くもなく新しくもない。人間社会の「理想」である。そこに近づくとか近づかないとかではなく心棒となるものである。我々、日本人のDNAは東アジアの人間と配列が同じだそうだ。どこか響き合う方法はないだろうか。「それは理想的だよ」と一笑せず、その“理想的”を追求する時だと思う。
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元気な暮らし
元気な暮らし
「健康」という実体のない幻想にふり回されいで、病気があっても「元気」でいられる事。
元気でいられるとはどういう事だろうか?
以前はできたのに今はできない事に拘泥しないで潔くあきらめる。
病気で失ったものに目を向けずに、残されたものに目を向ける。
開き直って空をあおぐ。一つ深呼吸して自分を信じる。人を信じる。誰かと話す。
その人の話に耳を傾ける。どの人からも学ぶ事がある。元気とは自分らしい暮らしができる事。平凡でいい。穏やかでありたい。風の音、光のうつろい、草のにおい、秋の匂い…。微妙な変化を捉え、心なごむ暮らしができる事。又、その反対に心乱れる時もあっていい。人のために歯ぎしりしながら生きた宮沢賢治のこんな詩にも心打たれる。
     ─ まことのことばはうしなはれ
       雲はちぎれて そらをとぶ
       ああ かがやきの四月の底を
       はぎしり燃えて ゆききする
       おれはひとりの修羅なのだ ─
                2006.9.9
ムラサキセンブリ
ムラサキセンブリ
キキョウ
キキョウ
菅平牧場芝牧区から根子岳・四阿山の眺望
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仏教の心
仏教の心
新緑の当麻寺 仏教の中に「山川草木悉皆仏性」とあり、誰でも救われ、成仏できるとされる。これは自然保護にも通ずる。物言わぬ自然にも仏性があり、その一生を全うし、往生していく権利があるという風に。そして、その権利を保護し、守っていくのが人間の責任ではないか。最小限の消費(撹乱)を許してもらい、自然によって生かされている事(他力)に感謝し、多くを取らない、むさぼらない、おごらない事を肝に銘じていく。「頂きます」(頂かせてもらいます)「ご馳走様」(ご馳走でありました)の心。これを「最小限の消費と最大限の幸福」(仏教経済学)という。梅原猛氏は、今こそ仏になろうと訴える。人間も又、人を殺すDNAを受け継いでいるのではないか。だから「愛国心」という名で人殺しをしたり、「国際協力」という名で海外派兵したり、平和の9条をなし崩しにする前に、まず、「殺すなかれ」を前提にしないと人類は滅亡してしまうと。
 釈迦の右手は施無畏(怖がらなくていいよと不安を取り除く)の印。
 宮沢賢治が雨ニモ負ケズ≠ナ「心配しなくていいよ」と出かけていくのと同じ。賢治の考えに今一度戻って、やさしく手を差し伸べる「差し伸べ方」(自利利他)は何かを考え、行動する時である。「六波羅蜜」の徳の一つ「布施」には財施、法施、無畏施、和顔施(笑顔でもって心を和らげる)などがある。
 マザーテレサは「愛の反対は無関心」といった。憎しみにはまだ愛がある。愛がほしいための感情である。無関心にはそれがない。イヤな世の中だといいながら、どこか無関心。それが一番恐い。
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もう一つの時間
仏像(その2) もう一つの時間
富山から立山連峰を望む NHKの福祉番組で移動アーティストの加藤さんという方が、福祉とは「無い」ものを「与える」のではない。
 人の中にある忘れてしまったもの、諦めていたものを呼び起こし、何かしようという気持ちにさせてやることだと。この人の場合、それは色≠セという。
 阪神大震災の時、瓦礫の無色の世界の中で、人々は疲れ切っている。そこにコーヒーのお店の看板を一つかかげた。そこだけがさわやかな初夏の明るさのように。たった一つの看板だけど、人々は吸い寄せられるように集まってくる。
 集まって、しゃべっていると笑いが起き、紙コップのインスタントコーヒーだけど、なんだか極上のコーヒーを飲んでいるような幸せな気分になってくる。色によって不安や絶望や憤りの毎日の中で、こんな浮き浮きした気持ちを味わえるとは。
 中越地震では、避難所の子どもたちに36色のクレヨンを渡したという。8色でも12色でもなく色とりどりの色のある、その色を見ているだけでワクワクしてくるように36色を。果たしてその色に惹きつけられ夢中で紙に自分の思いをぶつける。
 何もかも忘れて描いている時間。出来上がった喜び。あたり前のことも当たり前にできない大変な状況下で、何かに夢中になれる。
 自分と色とが楽しく遊ぶ時間。至福の時間。もう一つの充実した時間。色はそんな役目を持っているのだと思った。
 「一日86,400円をくれるとしたら あなたはどう使いますか」と日本笑い学会の先生は言っていた。円は秒に直して考えて下さいと。それは同じように流れていく時間の中であなたは「もう一つの時間」を持っていますかと問いかけているようでもある。今、私に「もう一つの時間は何ですか」と聞かれたらヤマト仏像に会う事だろうと答えるだろう。
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仏像
仏像
我が家の窓より霧氷の朝 山に感じると同じ想いを仏像の前でも感ずる。時空を超えた自然の大らかさと力強さを。目の前にいる自分という存在の小ささをやさしく包み、捉らわれている心のわだかまりを解き放してくれる。
 親鸞聖人が聖徳太子を讃えた言葉に
     「多々(慈父)の如く、すてずして 
          阿摩(悲母)の如くにそひたまふ」
                   (百寺巡礼の本より)
とあるが、この言葉通りの清々しい気持ちにさせてくれる。
 くよくよした気持ちを取り払うように、「私がいるじゃない」と励ましてくれ、これでいいのかと問えば「それでいいんだよ。」と慰めてくれる。そういう親しみと同時に瞑想にふけり、どこか遠くを見ているような。その遠い所は浄土という宇宙なのか。仏像そのものが宇宙的であり、心地よい無我の境地に誘い込んでくれる。又、会いに行きます。                                  2006.1.31
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ブナ林
ブナ林
ラベンダー 10月はブナ林のある山に行った。中条村と戸隠村の境にある虫倉山。里の人たちに崇(あが)められている山である。倉はー(くら)に通ずるのか頂上へは急登の岩稜である。友だちはブナの根元に生えるマイタケを見つける。
 雨飾山は明るい黄葉のブナ林であった。何故、ブナの林は明るいのだろうか。幹が灰色のせい? 葉縁が先へ鋭がらず、葉脈の方へ内側に入りこむ曲線がやさしく感じられるからか。林床の植物群が常緑のせいか。落ちている実まで美味しい。
雨飾山ブナ林の紅葉 森太郎の鍋倉山の先、新潟方面へ信越トレイルというトレッキングコースが整備されつつある。その一部関田峠から牧峠まで往復5時間のブナ林を歩いてみた。足許がふかふかして気持ち良い道である。ハイイヌツゲ、ヒメアオキ、ヒメモチ、エゾユズリハ、チシマザサなど多雪地に多い地這性の低木を見ながら。ナナカマドの赤い実が一面に落ち、足許にはユキザサ、ツルアリドウシの赤い実も。ツクバネソウの黒い実も羽子板の羽根につけるくらい大きい。
 又、信越トレイルの起点である斑尾山のふもとの沼ノ原湿原の周辺を歩いた。道沿いにサワフタギが並び、瑠璃色の実が露にぬれて光っている。ここはブナ─オオバクロモジ群落の林。オオバクロモジの葉をもむといい香りがする。対になった黒い実も見つける。山登りもいいけれど、ブナ林がどういう植物と共生しているのかじっくり観察し、自然に親しむ人たちも増えてほしい。又地元もそういうアピールをしていくといいのだが。
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アケボノソウ
アケボノソウ(りんどう科) 菅平湿原のアケボノソウ2005.9.6
菅平湿原のアケボノソウ
 9月初めの湿原にはミゾソバ、タニソバ、ウナギツカミ、トリカブト、アケボノソウ、サラシナショウマなどが咲いている。アケボノソウ(りんどう科)の花弁には黄緑色の密腺溝が2つ並びその上の先に濃い緑の斑点がある。この斑点が暁星にみたてられたとか。

 お客さんで絵心のある人が多く来られる。初めは下手だからと躊躇していた人も、花が好きだから描き出す。描き出していくと素敵な絵になっていく。花が好きだから絵にも良さが表われている。何でもやってみる事だなと思う。
 8月にマッサージを仕事をしている方が来られた。私が親指を動かすことがとても痛く、これ以上悪くならないためにはどうしたらいいかをきいたところ、その人は「人間には元に戻ろうとする再生能力があるんですよ。だから必ず治りますよ。寝ていた人が車いすに乗って生活できるようになると、物の言い方も違ってくるんです。それまで受け身だったのが『こうしたい』『こうしたくない』というようになってきます。」私はもう治らないと思っていたことを、その人は治るためにここするといいと教えてくれた。「治らない」と思う事を「治る」と思うことでは 不安から180゜変わって希望を持つことになる。見通しが立ってねそれに向かうことがどんなに明るい気持ちになれるか。否定的になれば否定的な生活しかおくれない。
 高齢化時代、人に与えてくれる こういう人たちが もっともっと居て欲しいとおもう。
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ミヤコグサ
ミヤコグサ(マメ科)
ミヤコグサ  ダボスの丘に黄の地をはっているような ミヤコグサがある。
 その他に彩かなオレンジ色のミヤコグササも増えてきた。
 ミヤコグサもかつては帰化植物で、京の都に生えていたからこの名がついたとか。
 ミヤコグサの萼は無毛なので、もし毛があればニシキミヤコグサかセイヨウミヤコグサかもしれない。
 最近増えてきた理由はわからない。
 この所、セイヨウタンポポ、ヤマガラシ、ブタクサ、カナムグラ、木ではニセアカシアの帰化植物などがはびこっている。
 特にニセアカシアは以前より目立つようになった。他の植物を寄せ付けない他感作用と窒素固定のバクテリアを持つこの木は、これから猛威をふるうだろう。
 いずれにしろ、自然も変化していくのだから、いつまでも同じではない。
 しかし、この変化に加速をつけているのが人間のような気がする。人間だけがこの地球を、勝手にいじっていいはずがない。
  『草木国土悉皆成仏』─生きとし生けるもの、皆価値があり、生成流転は自らが決めるものである。我々自身が他者におびやかされたり、おびやかしたりすることがあってはならないように。     
絵は「ニセアカシア」
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オサバグサ
オサバグサ
(ケシ科)
北八ヶ岳で見たオサバグサ       山梨県鳳凰三山
地蔵岳賽の河原 オサバグサを北八ツ、双子池周辺にしかないといった人がいたが、八ヶ岳では一般的に見られるし、今回鳳凰三山の御座石鉱泉側の下りでも見た。どうしてかと思い調べたところ シラビソ─オオシラビソ群落の構成種になっている。亜高山帯にはえるシラビソ群は寒冷のため落葉が分解しないで、そのまま、厚く堆積した酸性の腐植になる。それを好むラン科の植物、コフタバランやイチヨウラン。セリバシオガマやオサバグサなどがでる。シラビソ─オオシラビソ群落のある八ヶ岳、秩父山地、中央・南アルプスなどにみられるそうだ。いずれの花も見ることができ、納得した。
 山に登る時、花だけを知るのではなく、高木層、低木層、草本層との関係で見ると面白い。ちなみにシラビソ林に入ると時代を終えたダケカンバの老木と倒木に出会い、林床には地衣類がじゅうたんのように敷きつめられた光景と実生から育ったシラビソが繁茂し、次の時代を待っている光景とに出会い、感動する。
2005.7.21
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チョウセンゴミシ
チョウセンゴミシ
(朝鮮五味子)
チョウセンゴミシ この土地ならではの野生の果実があるので酒に漬けて、少量ですが来たお客様に飲んでいただいています。
 ヤマナシ、スモモ、ヤマブドウ、ズミ、チョウセンゴミシなど。他に、カラフトイバラ、ナナカマド、シラタマノキ、ウワミズザクラの実を漬けている人もいる。下戸なので、味についてはよく分からないが、スモモが酸味と甘味がほどよく出てワインカラーの見た目も良く、好評である。果実酒のひとつに、チョウセンゴミシがあるが、この聞き慣れない名に誰もが「何ですか」と言う。
 和名を朝鮮五味子と書き、朝鮮半島から来たものである。
料理には五つの味がないと美味しくないそうだ。甘い、酸っぱい、塩辛い、苦い、辛いが揃っていないといけないのだそうだが、その五つの味を持つ実ということである。
 長野県の山地のほとんどで散生している蔓性の植物である。秋、彩りのない山にあってこの鮮紅色の実だけ際立つ。
 熟した実を乾燥させるとシワシワのブルーベリーのようになり、何ともいえない味がする。漢方では北五味子と言い、南五味子(サネカズラ)と共に強壮剤、咳止め薬になると言う。
「紅き実の そこだけが彩(いろ) 秋終わる」
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雪のくらし
雪のくらし
 誰かが「菩提の雪」と評したけれど、本当に雪は人間欲望で消費された幾多のゴミを覆いかくし、何事もないかのように白い景色は静まりかえっている。
 雪は困惑もねたみも、ただただ白一色の中へ溶かし込んでいく。
 時にはちぎれるような吹雪になって、人間のちっぽけな悩みなど、愚かしいことばかり、うねる音と共に吹き飛ばしてくれる。
さかまき狂う風の中で、雪女が弱い人間をあざ笑っている。
鍋倉山の「ユキツバキ」
junko
鍋倉山の「ユキツバキ」
冬の星は、地上の人間の悲しみを一つ一つ
掬い上げ、光となる。
今夜の雪は静寂の中にあって白く光り、凍みていく。
翻弄されながらも、楽しい雪国のくらし。
「伸びやかに 女体のごとく 雪の原」
「白き野は 思いちぎれて どこまでも」
「ゆうべ降る やわ肌の雪 触れてみん」
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遠慮がちな春
遠慮がちな春
ダボスの丘のオキナグサ下からあたたかい土が見えたかと思うと「まだまだ」と上から
軽い雪が舞い落ち、そのうち積もって白一色の世界へ後戻り。
ふきのとうを採りに行こうかと心弾ませて外へ出てみたものの
その外気の冷たさに気持ちも萎えてしまった。
串田孫一氏は「緑は白の対比の中から、一時にあらわれるものではなく、
幾毎の白に消されながら、はじらいと躊躇をもって
生命を生み出していくのだ。」と書いておられたが、
雪国の春は、白に遠慮しながら徐々に徐々にやってくる。
そして里から1ヶ月以上遅れて春になる。
 「ふき摘みに つと出てみれば 元の雪」
  「やれやれと 思うつかの間 戻り雪」
   「芽吹く木に ぽってりと咲く 雪の花」
 「朽ち葉から 金色はなやぐ 福寿草」
    奥信濃 待ったかいあり 花吹雪」
                 オキナグサ→
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薫る風
薫る風
小布施の河川敷の桃畑今、あなたの跳ぶ瞬(とき)を見ました。
 ついこの間まで 振り返ってばかりいたあなた
  堂々めぐりしていたあなた
    うつむいてばかりいたあなた
愚痴しか出なかったあなた
  でも それは助走に必要な時間だったのですね
   人は跳ぶ瞬があるんです
とまどい、泣き伏し、苦しみ、力尽きてしまったように見えても
 それはみんな跳ぶために必要な時。
  今、あなたの跳ぶ時を見れて、わたしは う・れ・し・い
              小布施の桃 →
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病気して「見えてきた」もの
病気して「見えてきた」もの
お屋敷広場の山グミ 優越した方を価値があると評価するのが通常の見方なのだが、その反対のマイナスと見なされる事を経験すると、物の見方が少し変わる。
 病気より健康の方が、早く走れる方が遅いより、不器用より器用な方がいいに決まっているが。
 しかし、そのマイナスを受け取った人間は不幸かというとそうではない気がする。マイナスを受け取った側の方が強く生きれる。マイナスをどうプラスにしようか、あるいは上手に付き合おうかと工夫する。
 手術後、しばらく目が見えなくて不便だったが、どうしても散歩に変わる運動がしたかった。わが家の階段はカーペットが敷いてあるので素足でも暖かく、滑らない。壁と手すりがあるので、両手で押さえれば、見えなくても一段の踏み台昇降運動は出来る。前向きと後ろ向きの昇降を10分ずつ交互にやって1時間程やると汗びっしょり。
 散歩もいいけど、この運動も「やったあ」という感じがしてなかなかいい。
  物は考えようだなあとつくづく思う。その状況にぶつかった時、
   人間って何とかなるもんだなぁと、自分が好きになった。 
                       (挿絵は真田町のお屋敷公園でヤマグミスケッチしました)
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自然のしくみ
自然のしくみ
別所のシデコブシ 「沢筋の林は『渓畔林』と呼ばれ、シオジやサワオグルマのような成長の早い陽樹からなる。長い年月のうちには、他の樹種が成長して林床は暗くなるから跡継ぎが育つことができなくなる。そういう状況になったとき、土石流が起きると、樹木の大半が流され、広い空地ができる。すると両種は先がけてそこに発芽できる。親木を犠牲にすることで子孫を残すことに成功する。氷河時代が終わってから1万年の間に50回も起こったといえる土石流で、植物にも当然、土石流をうまく利用するものがあらわれてくる。渓畔林の植物にとって土石流は敵≠ナはないのだ」(小泉武栄著「山の自然学」より)
 土石流さえも自分達の生存のために利用する植物たち。そのたくましさと進化の歴史を思うと人間の都合だけで自然を見てはいけないと思う。
 春一番に咲く福寿草、カタクリ、ミスミソウ、アズマイチゲなどは落葉樹がまだ葉をつけないその一時だけ光をもらって生育する。一時だから大きく成長することができない。小さければ種の散らばる範囲は狭い。カタクリなどは遠くへ種を運んでもらうためにアリの好むフェロモンを種の皮につけ実は残るようになっているという。カタクリとギフチョウの関係も何かありそう。
 4/5に新潟の角田山に行き一面のカタクリが咲く中にギフチョウが舞っていた。
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「色即是空」について
「色即是空」について
菅平で見た道端のイヌフグリ 「色即是空」という事を考える。「色(ある、物質)も空(ない、精神)も本(もと)より不二である」といわれている。
 あるとかないとか二極化できないし、それ自体渾然としていて、意味を持たない。
 ましてやあるからイイ、無いからダメという事でもない。
 「五体不満足」の作者は無いのは「不便だが不幸はない」といっている。お金がないのは「不便だが不幸はない」。病気であることは「不便だが不幸はない」。年をとることは「不便だが不幸はない」。年をとることは成長すること(aging is grouwing)ということわざさえある。
 見えなかったことが見えてきたりする。「無い」という中に確かな「有る」があるのだとわかった。
 植物は闇に向かって根を下ろさなければ、光に向かって成長することができない。
 何事にも捉われず、自由な心になる事が、自分を解き放してくれる。
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冬の日
冬の日
菅平牧場の冬景色1月3日
昨日の大雪のあと青空をバックに根子岳は白く、くっきり浮かび上がる。 ドサッと降った後に、晴れ晴れとして、きりっと冴えた景色がいい。青と白とカラ松の冬芽の茶の絶妙のコントラスト。透き通るくらいの明確さ。
1月5日
根子岳の半分はガスっていて、冷たいグレーの午後もいい。ずみの赤い実の小枝に張り付いた氷。細く短い氷のストローの先に小さな赤い花が木いっぱいに咲いているよう。雪雲の暗さの隙間から時々見える弱い光は、霧氷の木々だけを浮かび上がらせる。灰白色の濃淡で彩られる雪景色も捨てがたい。
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三方五湖
三方五湖
朝焼けの若狭湾 日本海の底深く暗鬱な海は、気持ちが暗くなるというより、そこから這い上がれといっているよう。山の上から夕照の海面を見ると、明暗合わせ持つ人生のひだのようで、落ち着いた気分にさせられる。
 生きることは「闇」の見え隠れに絡め取られてジタバタして思うようにならないでいる。時々うまくやり過ごしたり平安の一刻があって救われたりもしている。人間の生は生まれ落ちたそのときから死に近づいているのだから、おのれの小ささを知りつつ、あきらめず、こだわらず、しかもおごらずに大きな流れの中に身を委ね、往くべきところへ往くように処していくしかないのでしょう。
       若狭湾の朝焼け
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スノーシュー
スノーシュー
冬の白川郷 合掌造りの家並み スピード感という快感を求めなくなった頃から、山登りも頂上を極めるために、速く歩いて着くことだけに気持ちがいくのをやめた。
 途中に、一つ“出会いがあれば”その山に来た甲斐があったと思う。その印象を大事にして引き返すこともある。
 スキーより雪道散策が好きで、立ち止まり、寄り道を好んでする。いつも新しい発見があってワクワクする。
 ススキの立ち枯れが雪に映る影に見とれ、白い雪肌に妖しくなめらかに窪む青いへこみについ、手を触れてみたくなる。雲母のような雪片が光にあたってキラキラ流れていく風花の美しさ。
 キジ、カモシカ、狐、ウサギのそれぞれの特性がわかる足跡。
 そういう意味で、スノーシューはどこへでも行けて楽しい。雑木の間をくぐり抜けていくうちに、「ここはどこ」。
 沢に付くつららがとっくり型になることに納得。雪の柔らかいところに足をつけ雪と一緒に川の中へドサッ。
 どれをとっても予測なしのどきどき体験。スローライフの極みがスノーシューならぬスローシューです。
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