| 九条のもつ意味 | 
          
          
              太田光、中沢新一の本 
「九条を世界遺産に」という発想がどこから来ているのか知りたくて読んでみる。私なりの理解でいくと次のような事かと思う。「憲法九条」は世界に一つしかない理想の社会、国際社会の有り様を描いている。他の国の憲法は「殺(や)られたら、殺(や)りかえす」か「殺られる前に、殺ってしまう」というものだが、「殺られても、殺らない」という希有な憲法である。だからこれを守るには、それなりの覚悟がいる。同族を殺す動物ではサルの仲間だけだという。そのDNAを持った人間は「殺す」という行為が簡単にできる動物である。だから、「殺されたくないから、殺さない」では、この憲法は守れない。「殺されても殺さない」という覚悟がないと守れないのだと。日常、生活している人間は、いさかい、傷つけ合って暮らしているけど、あの山の修道院では、毎日、己に厳しく修行し、清らかな生活をしているのではないでしょうか。時々、あの修道院の人たちの事を考え、心を清めよう、平安に暮らそうと願う、その願う拠り所が、この憲法九条であるという。たしかに「誠実に希求する」という言葉のひびきはとても宗教的に感じる。願うという弱々しいものではなく、一途に、激しく、曲折しない祈りのようなものを感じる。そういえば、六波羅蜜に到る過程で、まず実践しなければならない十善戒の第一が「不殺生(ふせっしょう)」。生きとし生けるものを殺さない。もっとつきつめて 殺されても殺さない。我々人類の歴史は殺し合いの歴史とみてもいい。だから、この憲法に込められた「非戦」は永遠に願い続け、日々、あらたに問いかけ続けなければならない。決して古くもなく新しくもない。人間社会の「理想」である。そこに近づくとか近づかないとかではなく心棒となるものである。我々、日本人のDNAは東アジアの人間と配列が同じだそうだ。どこか響き合う方法はないだろうか。「それは理想的だよ」と一笑せず、その“理想的”を追求する時だと思う。 | 
          
          
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            | 元気な暮らし | 
          
          
            | 元気な暮らし | 
          
          
            「健康」という実体のない幻想にふり回されいで、病気があっても「元気」でいられる事。 
            元気でいられるとはどういう事だろうか? 
            以前はできたのに今はできない事に拘泥しないで潔くあきらめる。 
            病気で失ったものに目を向けずに、残されたものに目を向ける。 
            開き直って空をあおぐ。一つ深呼吸して自分を信じる。人を信じる。誰かと話す。 
            その人の話に耳を傾ける。どの人からも学ぶ事がある。元気とは自分らしい暮らしができる事。平凡でいい。穏やかでありたい。風の音、光のうつろい、草のにおい、秋の匂い…。微妙な変化を捉え、心なごむ暮らしができる事。又、その反対に心乱れる時もあっていい。人のために歯ぎしりしながら生きた宮沢賢治のこんな詩にも心打たれる。 
                 ─ まことのことばはうしなはれ 
                   雲はちぎれて そらをとぶ 
                   ああ かがやきの四月の底を 
                   はぎしり燃えて ゆききする 
                   おれはひとりの修羅なのだ ─ 
                            2006.9.9 | 
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            | ムラサキセンブリ | 
          
          
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            | キキョウ | 
          
          
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            | 仏教の心 | 
          
          
            | 仏教の心 | 
          
          
              仏教の中に「山川草木悉皆仏性」とあり、誰でも救われ、成仏できるとされる。これは自然保護にも通ずる。物言わぬ自然にも仏性があり、その一生を全うし、往生していく権利があるという風に。そして、その権利を保護し、守っていくのが人間の責任ではないか。最小限の消費(撹乱)を許してもらい、自然によって生かされている事(他力)に感謝し、多くを取らない、むさぼらない、おごらない事を肝に銘じていく。「頂きます」(頂かせてもらいます)「ご馳走様」(ご馳走でありました)の心。これを「最小限の消費と最大限の幸福」(仏教経済学)という。梅原猛氏は、今こそ仏になろうと訴える。人間も又、人を殺すDNAを受け継いでいるのではないか。だから「愛国心」という名で人殺しをしたり、「国際協力」という名で海外派兵したり、平和の9条をなし崩しにする前に、まず、「殺すなかれ」を前提にしないと人類は滅亡してしまうと。 
             釈迦の右手は施無畏(怖がらなくていいよと不安を取り除く)の印。 
             宮沢賢治が雨ニモ負ケズ≠ナ「心配しなくていいよ」と出かけていくのと同じ。賢治の考えに今一度戻って、やさしく手を差し伸べる「差し伸べ方」(自利利他)は何かを考え、行動する時である。「六波羅蜜」の徳の一つ「布施」には財施、法施、無畏施、和顔施(笑顔でもって心を和らげる)などがある。 
             マザーテレサは「愛の反対は無関心」といった。憎しみにはまだ愛がある。愛がほしいための感情である。無関心にはそれがない。イヤな世の中だといいながら、どこか無関心。それが一番恐い。 | 
          
          
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            | もう一つの時間 | 
          
          
            | 仏像(その2) もう一つの時間 | 
          
          
              NHKの福祉番組で移動アーティストの加藤さんという方が、福祉とは「無い」ものを「与える」のではない。 
             人の中にある忘れてしまったもの、諦めていたものを呼び起こし、何かしようという気持ちにさせてやることだと。この人の場合、それは色≠セという。 
             阪神大震災の時、瓦礫の無色の世界の中で、人々は疲れ切っている。そこにコーヒーのお店の看板を一つかかげた。そこだけがさわやかな初夏の明るさのように。たった一つの看板だけど、人々は吸い寄せられるように集まってくる。 
             集まって、しゃべっていると笑いが起き、紙コップのインスタントコーヒーだけど、なんだか極上のコーヒーを飲んでいるような幸せな気分になってくる。色によって不安や絶望や憤りの毎日の中で、こんな浮き浮きした気持ちを味わえるとは。 
             中越地震では、避難所の子どもたちに36色のクレヨンを渡したという。8色でも12色でもなく色とりどりの色のある、その色を見ているだけでワクワクしてくるように36色を。果たしてその色に惹きつけられ夢中で紙に自分の思いをぶつける。 
             何もかも忘れて描いている時間。出来上がった喜び。あたり前のことも当たり前にできない大変な状況下で、何かに夢中になれる。 
             自分と色とが楽しく遊ぶ時間。至福の時間。もう一つの充実した時間。色はそんな役目を持っているのだと思った。 
             「一日86,400円をくれるとしたら あなたはどう使いますか」と日本笑い学会の先生は言っていた。円は秒に直して考えて下さいと。それは同じように流れていく時間の中であなたは「もう一つの時間」を持っていますかと問いかけているようでもある。今、私に「もう一つの時間は何ですか」と聞かれたらヤマト仏像に会う事だろうと答えるだろう。 | 
          
          
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            | 仏像 | 
          
          
            | 仏像 | 
          
          
              山に感じると同じ想いを仏像の前でも感ずる。時空を超えた自然の大らかさと力強さを。目の前にいる自分という存在の小ささをやさしく包み、捉らわれている心のわだかまりを解き放してくれる。 
             親鸞聖人が聖徳太子を讃えた言葉に 
                 「多々(慈父)の如く、すてずして  
                      阿摩(悲母)の如くにそひたまふ」 
                               (百寺巡礼の本より) 
            とあるが、この言葉通りの清々しい気持ちにさせてくれる。 
             くよくよした気持ちを取り払うように、「私がいるじゃない」と励ましてくれ、これでいいのかと問えば「それでいいんだよ。」と慰めてくれる。そういう親しみと同時に瞑想にふけり、どこか遠くを見ているような。その遠い所は浄土という宇宙なのか。仏像そのものが宇宙的であり、心地よい無我の境地に誘い込んでくれる。又、会いに行きます。                                  2006.1.31 | 
          
          
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            | ブナ林 | 
          
          
            
            
              
                
                  | ブナ林 | 
                 
                
                    10月はブナ林のある山に行った。中条村と戸隠村の境にある虫倉山。里の人たちに崇(あが)められている山である。倉はー(くら)に通ずるのか頂上へは急登の岩稜である。友だちはブナの根元に生えるマイタケを見つける。 
                   雨飾山は明るい黄葉のブナ林であった。何故、ブナの林は明るいのだろうか。幹が灰色のせい? 葉縁が先へ鋭がらず、葉脈の方へ内側に入りこむ曲線がやさしく感じられるからか。林床の植物群が常緑のせいか。落ちている実まで美味しい。 | 
                 
                
                    森太郎の鍋倉山の先、新潟方面へ信越トレイルというトレッキングコースが整備されつつある。その一部関田峠から牧峠まで往復5時間のブナ林を歩いてみた。足許がふかふかして気持ち良い道である。ハイイヌツゲ、ヒメアオキ、ヒメモチ、エゾユズリハ、チシマザサなど多雪地に多い地這性の低木を見ながら。ナナカマドの赤い実が一面に落ち、足許にはユキザサ、ツルアリドウシの赤い実も。ツクバネソウの黒い実も羽子板の羽根につけるくらい大きい。 
                   又、信越トレイルの起点である斑尾山のふもとの沼ノ原湿原の周辺を歩いた。道沿いにサワフタギが並び、瑠璃色の実が露にぬれて光っている。ここはブナ─オオバクロモジ群落の林。オオバクロモジの葉をもむといい香りがする。対になった黒い実も見つける。山登りもいいけれど、ブナ林がどういう植物と共生しているのかじっくり観察し、自然に親しむ人たちも増えてほしい。又地元もそういうアピールをしていくといいのだが。 | 
                 
                
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                  | アケボノソウ | 
                 
                
                  | アケボノソウ(りんどう科) | 
                   2005.9.6 
                  菅平湿原のアケボノソウ | 
                 
                
                   9月初めの湿原にはミゾソバ、タニソバ、ウナギツカミ、トリカブト、アケボノソウ、サラシナショウマなどが咲いている。アケボノソウ(りんどう科)の花弁には黄緑色の密腺溝が2つ並びその上の先に濃い緑の斑点がある。この斑点が暁星にみたてられたとか。 
                   
                   お客さんで絵心のある人が多く来られる。初めは下手だからと躊躇していた人も、花が好きだから描き出す。描き出していくと素敵な絵になっていく。花が好きだから絵にも良さが表われている。何でもやってみる事だなと思う。 
                   8月にマッサージを仕事をしている方が来られた。私が親指を動かすことがとても痛く、これ以上悪くならないためにはどうしたらいいかをきいたところ、その人は「人間には元に戻ろうとする再生能力があるんですよ。だから必ず治りますよ。寝ていた人が車いすに乗って生活できるようになると、物の言い方も違ってくるんです。それまで受け身だったのが『こうしたい』『こうしたくない』というようになってきます。」私はもう治らないと思っていたことを、その人は治るためにここするといいと教えてくれた。「治らない」と思う事を「治る」と思うことでは 不安から180゜変わって希望を持つことになる。見通しが立ってねそれに向かうことがどんなに明るい気持ちになれるか。否定的になれば否定的な生活しかおくれない。 
                   高齢化時代、人に与えてくれる こういう人たちが もっともっと居て欲しいとおもう。 
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            | ミヤコグサ | 
          
          
            | ミヤコグサ(マメ科) | 
          
          
            
            
              
                
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                   ダボスの丘に黄の地をはっているような ミヤコグサがある。 
                   その他に彩かなオレンジ色のミヤコグササも増えてきた。 
                   ミヤコグサもかつては帰化植物で、京の都に生えていたからこの名がついたとか。 
                   ミヤコグサの萼は無毛なので、もし毛があればニシキミヤコグサかセイヨウミヤコグサかもしれない。 
                   最近増えてきた理由はわからない。 
                   この所、セイヨウタンポポ、ヤマガラシ、ブタクサ、カナムグラ、木ではニセアカシアの帰化植物などがはびこっている。 
                   特にニセアカシアは以前より目立つようになった。他の植物を寄せ付けない他感作用と窒素固定のバクテリアを持つこの木は、これから猛威をふるうだろう。 
                   いずれにしろ、自然も変化していくのだから、いつまでも同じではない。 
                   しかし、この変化に加速をつけているのが人間のような気がする。人間だけがこの地球を、勝手にいじっていいはずがない。 
                    『草木国土悉皆成仏』─生きとし生けるもの、皆価値があり、生成流転は自らが決めるものである。我々自身が他者におびやかされたり、おびやかしたりすることがあってはならないように。      | 
                 
                
                  | 絵は「ニセアカシア」 | 
                 
              
             
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            | オサバグサ | 
          
          
            オサバグサ 
            (ケシ科) | 
          
          
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              オサバグサを北八ツ、双子池周辺にしかないといった人がいたが、八ヶ岳では一般的に見られるし、今回鳳凰三山の御座石鉱泉側の下りでも見た。どうしてかと思い調べたところ シラビソ─オオシラビソ群落の構成種になっている。亜高山帯にはえるシラビソ群は寒冷のため落葉が分解しないで、そのまま、厚く堆積した酸性の腐植になる。それを好むラン科の植物、コフタバランやイチヨウラン。セリバシオガマやオサバグサなどがでる。シラビソ─オオシラビソ群落のある八ヶ岳、秩父山地、中央・南アルプスなどにみられるそうだ。いずれの花も見ることができ、納得した。 
             山に登る時、花だけを知るのではなく、高木層、低木層、草本層との関係で見ると面白い。ちなみにシラビソ林に入ると時代を終えたダケカンバの老木と倒木に出会い、林床には地衣類がじゅうたんのように敷きつめられた光景と実生から育ったシラビソが繁茂し、次の時代を待っている光景とに出会い、感動する。 | 
          
          
            | 2005.7.21 | 
          
          
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            | チョウセンゴミシ | 
          
          
            チョウセンゴミシ 
            (朝鮮五味子) | 
          
          
              この土地ならではの野生の果実があるので酒に漬けて、少量ですが来たお客様に飲んでいただいています。 
             ヤマナシ、スモモ、ヤマブドウ、ズミ、チョウセンゴミシなど。他に、カラフトイバラ、ナナカマド、シラタマノキ、ウワミズザクラの実を漬けている人もいる。下戸なので、味についてはよく分からないが、スモモが酸味と甘味がほどよく出てワインカラーの見た目も良く、好評である。果実酒のひとつに、チョウセンゴミシがあるが、この聞き慣れない名に誰もが「何ですか」と言う。 
             和名を朝鮮五味子と書き、朝鮮半島から来たものである。 
            料理には五つの味がないと美味しくないそうだ。甘い、酸っぱい、塩辛い、苦い、辛いが揃っていないといけないのだそうだが、その五つの味を持つ実ということである。 
             長野県の山地のほとんどで散生している蔓性の植物である。秋、彩りのない山にあってこの鮮紅色の実だけ際立つ。 
             熟した実を乾燥させるとシワシワのブルーベリーのようになり、何ともいえない味がする。漢方では北五味子と言い、南五味子(サネカズラ)と共に強壮剤、咳止め薬になると言う。 
            「紅き実の そこだけが彩(いろ) 秋終わる」 | 
          
          
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            | 雪のくらし | 
          
          
            | 雪のくらし | 
          
          
            
            
              
                
                   誰かが「菩提の雪」と評したけれど、本当に雪は人間欲望で消費された幾多のゴミを覆いかくし、何事もないかのように白い景色は静まりかえっている。 
                   雪は困惑もねたみも、ただただ白一色の中へ溶かし込んでいく。 
             時にはちぎれるような吹雪になって、人間のちっぽけな悩みなど、愚かしいことばかり、うねる音と共に吹き飛ばしてくれる。 
            さかまき狂う風の中で、雪女が弱い人間をあざ笑っている。 | 
                    
                  junko 
                  鍋倉山の「ユキツバキ」 | 
                 
                
                  冬の星は、地上の人間の悲しみを一つ一つ 
                  掬い上げ、光となる。 
                  今夜の雪は静寂の中にあって白く光り、凍みていく。 
                  翻弄されながらも、楽しい雪国のくらし。 | 
                 
                
                  「伸びやかに 女体のごとく 雪の原」 
                  「白き野は 思いちぎれて どこまでも」 
                  「ゆうべ降る やわ肌の雪 触れてみん」 | 
                 
                
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